人生は、「なんでもない日々」が試練となる。

都会の片隅で、自分らしく生きようとふわふわしているOLのブログ。

けっこんしても

けっこんしても、次はこどもができるかどうか、という悩みになるらしい。

 

周囲ではけっこんする人も増えてきて、出産の報告もぼちぼち聞こえてきた。そのなかで、けっこんはしたけどまだこどもはいない、という人も当然いる。

ただ、それご積極的にこどもを望んでいないわけではなく、たまたま巡り合ってない場合だと、周りを見て焦ったり不安になったりするんだって。

 

そうだよね。だって、わたしたち女の幸せって、好きな人とけっこんして、可愛いこどもを産んで、幸せな家庭を築くことだもんね。

 

そんな友達をみていて、ある意味ホッとした。わたしたちは、良くも悪くも、何か既成概念にしばられている。幸せ、を誰かのモノサシで考えることが、当たり前になってしまっている。

 

けっこんは、何かのゴールじゃない。

そして当然、こどもに恵まれること、出産することも、ゴールではない。

たぶん、、、こどもが20歳になっても、自分が80

歳になっても、ゴールなんてないんだろう。

 

 

人生は、「なんでもない日々」が試練である。

 

 

けっこん、とか出産は長い人生の中での、ハイライトであることは間違いないのでしょう。

でも人生は長い。そして様々な彩りにあふれている。幸せは自分が決める。

 

けっこんもしたい。こどもも欲しい。家族と暮らしたい。

それは、わたしが、わたしの人生の中で選んだ愛の課題。だから、自分のペースで、向き合っていけばよいのだ。

 

 

人生は、「なんでもない日々」が試練である。

 

 

アドラーの言葉を胸に、デコボコした茨の道を歩いていこう。

まっすぐ平坦な道より、歩きなさいと言われた道より、

自分が歩きたいと思って、四苦八苦しながらでも、前を見て歩く道のほうが、ワクワクしながら歩けるだろうから。

 

朝の電車

社会人になってから引っ越す前までは、田舎で車通勤だったし、学生時代は大学の近くに住んでたので徒歩orチャリ通。地元ではチャリかバス。

電車通勤は実質、初めてである。

 

朝の電車、一般的にはダイヤの中から自分が乗るものを決めているのが普通?そうでもない?

わたしは何時何分と決めていて、少し早く起きられれば1本前、2本前に乗る。(けども、だいたい起きられないのでいつもの電車になる)

 

痴漢や良からぬことを考える人の標的になりやすいから、時間や乗る号車は変えたほうが良いというけど、やってないし、女性専用車両も遠いからわざわざ乗りに行かない。

 

意識低すぎるだろうか…。

 

ほぼほぼ毎日同じ時間の同じ号車に乗っているけど、「いつも見かけるあの人」も皆無。

スマホ見るか本読むかして人を見ていないからかな。

 

たまには、人間観察をしてみるか。

 

 

はじめます。

東京に来て、そろそろ3ヶ月目に突入した。

 

「木を見て森を見ず」とはいうけれど、私は一本の木だから逆の立場。一本の木だったはずなのに、森の中では自分が木であることも忘れそうだ。っていうかそもそも都会の雑踏ではだれも、だれのことも見ていない。木も、森も、見ていない。

 

通勤電車で、乗り換えの階段で、じめっとした地下通路で、雑踏にまみれているとふと自分をを見失いそうになる。

ひとがたくさんいるのに、不思議なくらい孤独を感じる。

 

田舎はよかったなぁ。車通勤は気楽だったなぁ、などと思いながら、たぶん明日もふつーに電車に乗って会社に行く。

 

立派にアラサーになった。

通勤電車で見かけるハツラツとした女子高生たちが、羨ましく思うことはあるけど(制服っていいなぁ)、あのころの私と今の私とは、ずいぶん世の中の見方も考え方も生き方も、変わったと思う。

 

これがオトナになることかな。

 

オトナなので、自分の考えていることはしっかり言葉にしたいものです。

そういうわけで、ブログを書いてみることにします。